臍帯血中の造血幹細胞の存在を最初に見出す
臍帯血バンクを設立、移植の広がりに貢献(前編)
中畑龍俊(公益財団法人実験動物中央研究所 理事、京都大学 名誉教授)
2023.08.31
「この人に聞く」のシリーズ第19回は、実験動物中央研究所の中畑龍俊氏にお話をうかがいました。ヒトの臍帯血中に造血幹細胞が存在することを世界で初めて見出し、骨髄だけでなく臍帯血による造血幹細胞移植への道を切り開きました。その後、わが国の臍帯血バンクの設立に尽力し、臍帯血移植の普及に努めました。「深く考えて行動することが研究者には大切なこと。新しい発見に出合い、興奮で眠れない夜を経験したりすることが人生を豊かにし、それは研究にも臨床にも役に立つ」と話します。
中畑龍俊(実験動物中央研究所 理事)
1970年3月信州大学医学部卒。75年同医学部小児科助手。78年長野県飯田市立病院小児科医長。80年米国・サウスカロライナ医科大学血液内科リサーチフェロー。82年飯田市立病院小児科医長を経て85年信州大学小児科講師、91年同助教授。93年東京大学医科学研究所癌病態学研究部教授、輸血部長、小児細胞移植科長兼務。99年京都大学大学院医学研究科発達小児科学教授。2010年京都大学iPS細胞研究所副所長、臨床応用研究部門特定拠点教授。17年7月より実験動物中央研究所理事。
2022年度の日本造血・免疫細胞療法学会の造血細胞移植功労者として表彰され、同年秋には日本血液学会功労賞を受賞しました。長年にわたり、臍帯血移植の普及、臍帯血バンクの設立など造血細胞移植に貢献してきたことが評価されたものと思います。これらは私一人の功績ではなく、多くの関係者の指導や協力があってこその貢献であり、改めて感謝いたします。
振り返れば、これまで多くの場所・施設でたくさんの人と出会い、医師として研究者として、様々なことを学び、追究してきました。信州大学を卒業後、小児科医の道を進み始め、すぐに白血病の診療と研究に取り組むようになりました。米国留学が一つの転機で、留学中に見出した臍帯血中の造血幹細胞の存在が、その後臨床に応用され世界中に広がりました。帰国後は、信州大学小児科の臨床医として骨髄移植や臍帯血移植を積極的に進め、東京大学医科学研究所に異動してからは、小児の移植に特化した診療を進め、医科研は小児造血細胞移植のメッカとなりました。
その後、京都大学小児科に移り、小児科の原点に立ち戻って小児医療に取り組みました。定年を控え、同大iPS細胞研究所勤務となり、難病患者由来のiPS細胞を用いて病態解明や創薬の研究を進めました。現在は、実験動物中央研究所の理事として、実験動物を用いた研究やそのサポートをしています。
高校時代は考古学に明け暮れ、考える習慣が身に付く
信州大学で小児の白血病診療・研究に取り組む
私は終戦間際の1945年7月に、東京・狛江で8人兄弟の末っ子として生まれました。東京はほとんど焼け野原になっていて、私は防空壕の中で生まれたそうです。終戦後は両親の故郷である信州・辰野に移りました。高校は辰野町の隣の諏訪市にある諏訪清陵高校でしたが、授業は半分くらいサボって考古学に明け暮れた3年間でした。八ケ岳の裾野は広く、そこには縄文中期の遺跡が数多くあり、考古学には打ってつけの環境でした。先輩には有名な考古学者がおり、同期で成績が1番だった友人はそのまま考古学の道に進み、今は井戸尻遺跡(長野県富士見町)にある井戸尻考古館の館長を務めています。
考古学を学んで良かったと思うのは、見つけ出した土器のかけらや石器、矢尻などからその時代を類推するなど、いろいろ考える習慣が身に付いたことで、それは医師として研究者としての私の人生に大きな影響を及ぼしてきました。
大学進学に当たり考古学の道も考えましたが、20歳離れた長兄が医師として東京医科大学に勤務しており、「医者になったらどうか」と勧められ、父もかつて東京医大の事務に勤務していたこともあって、地元の信州大学医学部に進むことに決めました。
大学卒業時には、兄が伊那市で開業しており、私も内科医になって将来は信州の片田舎で開業しようかと考えていました。ところが、医学部時代の1960年代後半は大学紛争真っ盛りで、何とか卒業できたものの、大学では小児科以外の研修は受けられませんでした。小児科では、当時、教授だった赤羽太郎先生の温厚で人間味あふれる人柄、重症の子どもが回診するたびに元気な笑顔になっていく様子に魅せられ、そのまま小児科に入局しました。
赤羽先生は小児血液学が専門で、長野県だけでなく、山梨県など近隣からも白血病や小児がんの患者さんが集まっていました。私も白血病患者さんをたくさん診ましたが、当時はほとんどが亡くなっていました。たまたま最初に受け持った急性リンパ性白血病(ALL)の男の子が治癒し、今もその方は元気にしています。
この幸運な出会いで、私は俄然やる気が湧いてきて研究も始めました。当時講師だった西平浩一先生や若林靖伸先生らのグループに加えてもらい、造血幹細胞に関する研究を進めました。既に脾コロニー(CFU-S)が開発されて10年が経ち、前年にはヒト骨髄を用いたin vitroコロニー法が報告されていました。私たちはまず、これらの報告の再現に取り組みました。
私の末梢血をfeederとし、その上に特発性血小板減少性紫斑病(ITP)患者さんの骨髄を播き、培養しました。すると培養2週目に顕微鏡をのぞくと大きなコロニーがあちこちに形成されていました。文献頼りでの最初の培養で見事にコロニーができた幸運、1個の細胞がこんな大きなコロニーを作るという生命の神秘に感動し、虜になりました。その夜は、西平先生や若林先生とお酒を飲みに街に繰り出したことを思い出します。
1980年に米国・チャールストンに留学
マウス骨髄細胞から芽球コロニーを発見
その後、私は診療と研究に没頭しました。大きなコロニーができることが自慢で、学会でその写真を出すと「信州は水と空気がきれいだから」などと皮肉られることもありました。骨髄単核球から付着細胞を取り除き、さらに羊赤血球を用いてT細胞とB細胞を除くと、コロニー形成細胞が20個に1個まで濃縮できるようになりました。
そうした中、1977年に米国・チャールストンから小川眞紀雄先生が、当時の小児科教授だった小宮山淳先生を訪ねて来られました。私はコロニーの写真をお見せし、小川先生の下に留学したいとお願いしたところ、先生は「少し待つかも知れないが、可能でしょう」とお話しになりました。小川先生から「研究費が取れたので、来年からこちらに来られる?」という電話が入ったのは79年のことでした。私と妻は新婚旅行で徳之島に来ており、先生はわざわざ滞在先のホテルを調べて連絡を下さいました。こうして私は、80年から米国に留学することになりました。
飛行機に乗るのが初めて、海外が初めて、妻は妊娠5カ月という状況で米国に渡りました。英語がよく分からず、サンフランシスコ、アトランタを経由し、チャールストン行きの飛行機に何とか乗り継ぎ、80年7月1日にやっとのことでチャールストンにたどり着きました。空港まで出迎えに来てくれた小川先生の顔を見て、思わず涙がこぼれそうになりました。
チャールストンは東海岸のサウスカロライナ州で人口が最も多い都市で、小川先生の研究室はサウスカロライナ医科大学に隣接した退役軍人病院(VA hospital)の一角にありました。不慣れな環境で、片言の英語で研究を始めましたが、2年間の研究生活は楽しく充実したものでした。
最初の実験は、ウサギの骨髄を用いた培養で、比較的スムーズに進み2カ月でデータがそろいました。しかし「既に報告されている結果と大差がない」とのことで論文にはできず、研究の厳しさを思い知らされました。9月には、熊本から河北誠先生が合流しました。河北先生は再生不良性貧血(AA)患者さんの尿から抽出した大量のエリスロポエチン(EPO)を持ってこられており、このEPOなくして私のその後の研究はなく、今でも感謝しています。
次に私は、ヒト末梢血を用いて末梢血単核球からできるコロニーの構成細胞の詳細な検討を始めました。すると赤芽球と好酸球が混じったコロニー(EEoコロニー)を見出し、これは一つの細胞由来である可能性がありました。その結果を小川先生に報告すると「クローナリティーを証明する実験を加えるように」とのアドバイスがあり、苦労してその実験結果も加えた研究結果をまとめました。これがチャールストンでの最初の論文となりました。
この造血前駆細胞の存在の確認は、その後の造血幹細胞の分化におけるstochasticモデルを構築する出発点となりました。さらにマウスの骨髄細胞を用いた培養実験を繰り返し、時間をかけてコントロールすることで芽球コロニー(当時は幹細胞コロニーと呼んでいた)を発見するに至りました。このときばかりは小川研に箝口令が敷かれ、その後はこの方法により、造血幹細胞や造血前駆細胞の単細胞培養、種々のサイトカインの作用機序の解析に用いられることになりました。
臍帯血中に造血幹細胞の存在を初めて見出す
米仏の研究者により初の臍帯血移植が成功
同じ幹細胞コロニーはヒトでもできるのではないかと私は考えました。しかし、米国ではヒトの骨髄を用いる実験にはインフォームド・コンセントが必要で、すぐに骨髄を手に入れるのは困難でした。そこで臍帯血を使うことになりました。なぜ臍帯血でやろうと考えたか、思い出しても定かではありませんが、すぐ近くのローバー病院で半年前に長男が生まれ、医師や助産師と知り合いになっていたからかもしれません。そして、小川研の先輩研究者の伝手で臍帯血をもらうことができ、早速実験を開始しました。
〈後編では、東大医科研の小児科で移植を開始したことや、東京臍帯血バンクの設立などについて語っていただきました。〉