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この人に聞くThe Experts

白血病の治療と研究に挑み続けた45年
化学療法から分子標的薬への変遷を見届けて(前編)

薄井紀子(東京慈恵会医科大学 客員教授、国領医院 院長)

「この人に聞く」のシリーズ第23回は、東京慈恵会医科大学 客員教授/国領医院・院長の薄井紀子先生にお話をうかがいました。薄井先生は慈恵医大を卒業後、癌研究会附属病院などで最新の化学療法や免疫療法を学び、米国NIH/NCIに4年間留学しました。帰国後は、慈恵医大附属病院血液腫瘍内科で十数年間、診療と臨床研究に携わり、慈恵医大附属第三病院に移ったのちも教授として診療と臨床研究を続けました。「女性医師には人生のターニングポイントはいくつもあるが、仕事を続けてほしい。進む道は自分で考え決めることが大切」と呼びかけます。

薄井紀子(東京慈恵会医科大学 客員教授、国領医院 院長)

薄井紀子氏

東京都出身。桐朋学園小・中・高校を経て、1973年東京慈恵会医科大学に進学、79年に同大卒。同年5月より同大附属病院長直属の研修医として内科で研修を開始、81年5月に同大第3内科学教室医員。82年7月から癌研究会附属病院癌化学療法科臨床部医員、84年7月、静岡県富士市立中央病院内科勤務。85年9月に慈恵医大に復帰後、86年11月学位授与。88年10月より米国NIHに留学、92年9月に帰国後、慈恵医大第3内科学教室助手。同大内科学講座第3講師、血液・腫瘍内科助教授などを経て2013年4月より同大教授、附属第三病院輸血部診療部長。18年3月に退任し、4月より同大学客員教授、附属第三病院(現・同大西部医療センター)腫瘍・血液内科客員診療医長(23年3月退任)。18年5月に国領医院を開院。19年6月より社会保険診療報酬支払基金東京支部医療顧問、現在は東京都社会保険診療報酬審査委員会審査調整役。

 私は現在、国領医院(東京都調布市)の院長として週3回の午前中に診療を行っています。一方で、東京都社会保険診療報酬審査委員会(社保)の審査調整役を務めており、今はこちらが主要な仕事になっています。

 国領医院は、両親の診療所をリノベーションして再開した診療所です。原則予約制で、最も多いのは近隣の患者さんの診療で、母が診ていた患者さんも訪れます。東京慈恵会医科大学附属第三病院(現・同大附属西部医療センター)の外来で、私が診療した患者さんの生活習慣病などのフォローアップも行い、健診で血液異常を指摘された初診患者さんのうち、造血器腫瘍の疑いのある方は西部医療センターの血液内科へ紹介しています。

 社保の審査委員としての関わりは、2009年6月に医学専門家(血液内科)に就いたことが始まりでした。東京都内の血液内科診療を実施する医療機関を中心に審査をし、19年6月からは東京支部の医療顧問となりました。その後、法律改正に伴い、社保は全国の審査委員会を10ブロックに統括し、東京審査委員会は関東ブロック(1都9県)を組織改革して名称も変更しました。それに伴い、23年10月から医療顧問から審査調整役へと役割が変更となりました。

 社保では、血液内科診療が保険医療として適切に実施されているか、つまり支払側・保険者の理解が得られる診療内容となるように、各大学や専門医療機関の血液専門審査委員と審査のルール作りを行っています。その運用も大切です。厳格にすれば、臨床現場の医療が萎縮したり、患者さんが不利益を被ったりする可能性があります。かといって、緩め過ぎると、医学的には必要ではない医療が漫然と行われる恐れもあります。そのさじ加減が求められます。

両親とも医師、自然に医学の道に進む
白血病患者を助ける方法を知りたくて血液内科へ

 私は東京都出身で、小学校から高校まで桐朋学園で一貫教育を受けました。1973年に東京慈恵会医科大学医学部に入学しました。父親が内科、母親が小児科という家庭で育ち、自然と医師の道に進みました。ちなみに私は三姉妹の長女で、妹たちはそれぞれ建築家と陶芸家で全く違う道に進んでいます。

 入学後、最初の2年間は当時の附属第三病院近くの国領キャンパス(現在は医学部看護学科が併設)に通いました。国領医院の近くです。3年生から港区の西新橋キャンパスに移り、臨床実習などは附属病院で受けました。1979年に卒業し、附属病院での初期研修が始まりました。当時、慈恵医大では、最初の2年間は院長直属の研修医となり、3年目から専門医局を選択することになっていました。そして当時は、最初の2年間で4つある内科を半年ごとにローテーションしました。私は本院第一内科から始まり、その後、第三病院の内科、本院第三内科、最後は第二内科で研修を受けました。

 血液内科に進もうと考えたきっかけは、第三病院での研修中に担当した40代の急性前骨髄球性白血病(APL)の男性患者さんとの出会いでした。全身倦怠感があり出血の症状を呈し、当院に紹介されました。当時、APLに対する治療法は確立されておらず、指導医に相談したところ「教科書通りに治療するように」との答えが返ってきました。そこで、ダウノルビシン(DNR)+シタラビン(Ara-C)などで治療を開始しましたが、脳出血を発症し、入院してわずか3日目に亡くなりました。そのときは、何もできなかったという無力感に沈み、白血病はやはり「不治の病だ」と思いました。

 ところが、その後研修に行った本院第三内科では、30代のAPLの男性患者さんは治療後完全寛解(CR)に到達し、まもなく退院となっていました。同じ疾患でも白血病の専門家による最新の治療では、患者さんの予後が大きく異なることを目の当たりにし、専門性の重要性を実感しました。そして私は、白血病を治せる専門医になりたいと強く思い、第三内科の臨床血液研究班(現・血液内科の母体)への入局を決意し、81年5月の入局後は血液内科医としての専門研修が始まりました。

癌研で最新の化学療法と免疫療法を学ぶ
NIHでは基礎と臨床の研究手法を体得

 臨床血液研究班には、市場謙二先生、目黒定安先生、倉石安庸先生がいらっしゃり、私はそのメンバーに加わることになりました。血液内科医として日々の診療を行いながら、研究者としての基本を学びました。そうした中、癌研究会附属病院(癌研病院) 癌化学療法科に留学し、白血病とリンパ腫の化学療法を学んだ先輩の教えを受けました。それを学んだ私は、癌研病院で米国の新しい治療法を実践していることを知り、82年7月から同病院 癌化学療法科臨床部医員として、国内留学させてもらうことになりました。

 2年間の留学期間中は、小川一誠先生のもとで血液がんと固形がんの化学療法について学びました。臨床現場では、小川一誠先生、稲垣二郎先生、堀越登先生らから指導を受けながら、米国のスローン・ケタリングがんセンター、MDアンダーソンがんセンターなどが導入している最新治療法を学び、その4剤併用療法 [ダウノマイシン(DNR)+シタラビン(Ara-C)、ビンクリスチン(VCR)、プレドニゾロン(PSL)]を実践しました。また多くの海外研究者の集まる国際会議に参加させていただく機会も得ました。一方で、江崎幸治先生が主導するインターフェロンなどの免疫療法の研究にも参加しました。化学療法だけでなく、今後は免疫療法も重要になっていくことを学びました。

1982年 癌研究会附属病院化学療法科臨床部。小川一誠先生を囲んでの医局旅行
1982年 癌研究会附属病院化学療法科臨床部。小川一誠先生を囲んでの医局旅行
1983年 癌研究会附属病院ナースステーションにて。看護師さんと
1983年 癌研究会附属病院ナースステーションにて。看護師さんと

 癌研病院での留学を終え、84年7月に慈恵医大に復帰したのですが、主任教授の指示を受け静岡県の富士市立中央病院の内科に派遣となりました。新しい環境で仕事をすることや、血液内科医として新たな課題を探究することに大きな魅力を感じました。同じ第三内科から以前病棟長として師事した山田治男先生と、私の後輩の3人で赴任し、他の内科学講座の医師達に混じり、ベッド数が増えた市立病院の診療にあたりました。白血病の患者さんが多くいましたが、当時は赤血球や血小板の成分輸血が普及していない時代で治療も大変でした。ただ、市立病院だけあって、市の広報誌で献血を呼びかけたところ、協力してくださる市民が多く、献血協力による治療体制の構築につながりました。

 85年9月に慈恵医大に戻り、86年に学位を授与されました。当時、第三内科では急性骨髄性白血病(AML)の新たな治療開発を癌研化学療法科と共に進めておりました。新規治療は、初回寛解導入療法で可能な限り白血病細胞(芽球)を除去するためにDNRを投与する、DNR+Ara-C+6-チオグアニン(6-TG/米国から癌研が輸入)+PSLのDCTP-3療法と名付けて、これを実施していました(当時は臨床医学研究の倫理指針などが策定されておらず、米国で市販されていた抗白血病剤の輸入も可能でした)。

 私は新たな化学療法の開発を学び、その成果を検証したいと思い、米国の国立がん研究所(NCI)/国立衛生研究所(NIH)に留学することを決意しました。これまでの研究成果などから、NCIのDivision of Cancer Treatment (DCT)のVisiting Fellow(後にVisiting Associate)としてグラントを得て、88年10月に留学し、4年間研究に取り組みました。最初の2年間は、ベセスダ(Bethesda)のNIH/DCTが入るBuilding-10の6階のラボで、インターフェロンやインターロイキン-1などと、がん細胞の増殖・抑制のシグナル伝達、抗がん剤の殺細胞メカニズム、免疫細胞との関わりなどについて研究し、その成果を3本の論文にまとめました。後半の2年間は、フレデリック(Frederick)にあるNCIで、リンパ腫の権威であったDan L. Longo 先生のラボで、サイトカインなどBRM(Biological Response Modifier)と抗がん剤の併用療法と免疫化学療法のメカニズムなどをテーマに基礎研究に取り組みました。また、週1回の臨床カンファレンスに出席し、リンパ腫や悪性腫瘍の臨床研究について学び、実際の臨床試験がどう動いていくのかなども経験しました。白血病やリンパ腫を化学療法で治すためには、有効な薬剤と有用な併用療法の開発が必須で、その効果を多施設共同で臨床研究を行い検証することが重要だと実感しました。

1988~1992年 NIH/NCI留学時代のLaboのクリーンベンチ(左)とオフィス(右)
1988~1992年 NIH/NCI留学時代のLaboのクリーンベンチ(左)とオフィス(右)
1990~1992年 留学先 BRMP/NCI/NIHのDan L. Longo先生と
1990~1992年 留学先 BRMP/NCI/NIHのDan L. Longo先生と
ラボの仲間たちと
ラボの仲間たちと

〈後編では、帰国後に本格化した白血病の臨床研究と新薬開発への関わり、さらに若手へのメッセージについて語っていただきました。〉