米国に研究拠点を築いた原動力は粘り強く諦めない心。
小児科を出発点に造血幹細胞の起源を追いかける(後編)
吉本桃子(テキサス大学ヒューストン マックガヴァン医学校 幹細胞・再生医学研究センター アソシエイトプロフェッサー)
2018.02.16
ポスドクとしてインディアナ大学Dr. Yoder研究室へ
学位を取った私は、夫と二人でよーいドンで、 アメリカの興味あるラボにCVを一斉に送った。インディアナ大学のDr.Yoderは当時造血幹細胞の発生部位論争において、卵黄嚢に造血幹細胞の活性があるということを再発見した人物であったが、快く私にポスドクのポジションをオファーしてくださった。そして、夫のCVも大学内に回してくださり、無事夫もポスドクのポジションが決まったのである。2歳になる娘を連れて、家族3人のアメリカ生活が始まったのであった。2005年7月のことである。
周りを見てPIを志すように
インディアナ大学医学部は、インディアナ州の州都インディアナポリスに位置する。ダウンタウンは都会だが、少し郊外に行けば一面のトウモロコシ畑である。インディアナ州には医学部がインディアナ大学一つしかないため、日本的感覚で言うならば、州内の病院はすべてインディアナ大学の管轄と言っても過言ではない。そのため、良くも悪くも、穏やかで競争が少ない大学である。
インディアナ大学にはDr. Hal BroxmeyerやDr. Yoderをはじめとして、血液の分野で著名なPI(Principle Investigator)も多く、血液を研究するにはとてもよい環境であったが、インディアナ大学の出身者が多く、ポスドクからそのままfacultyになったPI も少なくなかった。こういう競争が少ない環境であるためか、不遜を承知で言わせていただくなら、「ものを知らない」PIも多いと感じた。自分の狭い研究分野のことしか知らないのである。私が日本で中畑先生や西川先生、当時熊本大学から慶応大学に移った須田年生先生とお話しさせていただいた機会には、サイエンスの深み、広がり、面白さに感じ入ったものである。
そういうわけで、不遜な私が思ったことは、
「こんなアホばっかりがPIになれるんやったら、私だって絶対PIになれるわ」
であった。全く不遜である。
アメリカではポスドクの後、 Assistant Professorになれば、自分のラボを持つPIになれる。日本とは大きなシステムの違いである。こうして、ポスドクの後半の頃より、PIにいつかなるぞ、と心に決めたのであった。
ボスのグラントに貢献し、Research Assistant Professorに
さて、Dr. Yoderのラボでは、心拍が開始せず胎児循環がないNCXノックアウトマウスを用い、卵黄嚢における造血能を詳細に調べようとしていた。胎児循環がないため、発生した造血前駆細胞が血流に乗って混じったりせず、臓器特定の造血能を調べることができるのである。卵黄嚢特異的造血幹細胞やB-1細胞の発生を明確にすべく、せっせと実験を行った。この結果をもとにDr.YoderはNIH R01グラントを取得し、私をResearch Assistant Professorに昇進させてくださったのである。2009年9月、ポスドクになって4年目の秋のことである。
PIを目指してグラント、就職活動。背水の陣。
Research Assistant Professorはノンテニュアポジションである。つまりボスに雇われているため独立はしていないものの、facultyであるため、自分のグラントを書くことができる。Dr.Yoderと今後のことを話し合い、独立を目指すには、まずはグラントを取ること、と言われた。当時は研究資金が獲得しにくくなっていた時期で、いい論文も大事だが、グラントを持っている方がポジションを獲得しやすいとさえ囁かれていた。 B-1細胞の論文がPNASにアクセプトされたのが2011年であるが、それと並行して、まずはNIHのK99(ポスドク独立グラント) に、そしてそれがダメでR01にチャレンジした。これがなかなかうまくいかず、「あともう一回」と思いながらチャレンジし続けた。
そうこうしているうちに、Dr.Yoderもグラントが尽きてきて、お金がなくなってきた。このままだと、そのうちラボは解散だ、という宣告がラボカンファレンスでなされた。背水の陣である。ボスか私が何かグラントを取らなければ、日本に帰るしかない。日米問わず、ポジションにアプライしたが、一つもインタビューのオファーを受けることはなかった。しかし諦めきれない私は、これが最後、と毎回思いながら、グラント申請も就職活動も続けた。
そうして、2016年の新年を迎えた頃、Dr.Yoderのへそくり資金もさすがに底をつき、私自身も、今回のグラントがダメなら、日本に帰って臨床に戻ろう、研修医からやり直そう、と覚悟を決めた。その矢先、R01のfunding lineを超えるスコアが出て、現在のテキサス大学からインタビューのオファーが舞い込んだのであった。
テキサス大学での面接、プレゼン、チョークトーク
私が得た面接のオファーはテキサス大学のみであった。このチャンスを逃したくない。2泊3日でfacultyとの面接、プレゼン、チョークトークが予定された。さて、私の英語は、10年アメリカにいても、日本語のアクセントがなかなか抜けない。そこで、"Accent Reduction" を専門にしているアメリカ人の先生をインターネットで探し出し、個人授業を受け、徹底的にプレゼンの練習をした。ゆっくり、分かりやすい英語を話すこと。英語の「正しい音を出すこと」の大切さを学んだ。先生は「きっとうまくいくわ!」と背中を押してくださった。
そして、面接は大変うまくいったと言ってもいいと思う。 しばらくして、オファーをいただいた。オファーの後、日本ではあまりないことだと思うが、給与、ラボ立ち上げのスタートアップ資金の交渉も行った。これも、テキサス大学内でのリクルートグラントに応募して勝ち取ったもので、満足のいく資金と給与の提案をいただいて、オファーを受けたのであった。
テキサス大学へ
こうして、2016年の8月、日本に帰国するつもりでいた夏に、テキサス大学ヒューストン校で念願の自分のラボを立ち上げたのである。よくもしつこく粘ったものである。
今ようやく、資金と場所を与えられ、スタート地点に立ったところである。