染色体欠失部位から疾患責任遺伝子を同定
MDS/AMLの研究と臨床の両立を目指す(前編)
細野奈穂子(福井大学 医学部 血液・腫瘍内科 講師)
2019.10.17
骨髄異形成症候群(MDS)や急性骨髄性白血病(AML)など骨髄系腫瘍で欠失が多く見られる第5染色体や第7染色体についての遺伝子変異の解析に取り組んできた、福井大学医学部血液・腫瘍内科の細野奈穂子氏。第5、第7染色体上の疾患責任遺伝子変異とそれによる骨髄系腫瘍の分子病態の解明を進め、それらの結果を、第80回日本血液学会学術集会のシンポジウム「Rising stars in JSH」で報告した。血液内科医として患者に寄り添いながら、一方でMDS/AMLの研究も進めていくと今後を見据える。
2012年に留学した米国オハイオ州のクリーブランドクリニックで、骨髄異形成症候群(MDS)の疾患責任遺伝子の探索に取り組み始め、帰国後も続けてきました。第80回日本血液学会学術集会のシンポジウム「Rising stars in JSH」では、それまでの結果を「骨髄系腫瘍における疾患責任遺伝子の探索:染色体5番、7番の変異解析」と題して口演しました。
MDSや急性骨髄性白血病(AML)などの骨髄系腫瘍では、第5染色体長腕の欠失(del(5q))、第7染色体長腕を含む欠失(−7/del(7q))などの頻度が高く、これらの染色体異常のあるMDS/AMLは予後が不良です。こうした骨髄系腫瘍の病態を生物学的に説明するためには、染色体異常における遺伝子異常を解析する必要があると考え、その研究を続けてきました。
私が注目したのは、5q−症候群の第5染色体長腕上で同定された新しい遺伝子変異と、第7染色体長腕上の3つの共通欠失領域(CDR)です。
第5染色体長腕上における5q−症候群の疾患責任遺伝子変異として同定したのは、CSNK1A1、G3BP1、DDX41で、これらが欠失することでハプロ不全となり、特にG3BP1とDDX41の発現低下は予後不良との関連が示されました。del(5q)におけるG3BP1のハプロ不全はTP53の活性化を引き起こし、TP53の体細胞変異を獲得したクローンが増殖優位となり、白血病を引き起こすと考えられました。また、DDX41はDEAD-boxファミリーのRNAヘリケースをコードし、その欠失により遺伝性白血病症候群を引き起こすことも明らかになりました。
一方、第7染色体全体または長腕の欠失(−7/del(7q))例については、長腕に高頻度欠失領域が3カ所同定され、各々の領域にCUX1、LUC7L2、EZH2の3遺伝子の変異を同定しました。いずれもそれらの遺伝子の欠失によるハプロ不全や機能喪失型の変異が骨髄系腫瘍の発症機序につながっていると推測されました。CUX1はホメオドメインファミリーの一つで、DNA修復機構における転写因子としての機能を持っており、CUX1の機能喪失により、DNA修復異常や染色体転座が高頻度に起こります。
また、U1スプライソソームであるLUC7L2の機能低下が与える影響を検証するため、LUC7L2の発現低下をきたした患者検体や細胞株を用いてRNAシーケンスによる解析を行なった結果、44遺伝子における選択的スプライシングパターンが同定されました。そしてこれらのスプライシングの異常が白血病発症に関与していることを明らかにしました。
これらの解析結果から、del(5q)、−7/del(7q)を有するMDS/AMLにおける遺伝子と病態との関連についての洞察が深まり、MDSに対する新しい治療アプローチの可能性が出てきたと考えています。
高校時代の仲間と地元の大学へ
“早割り”のある第一内科に入局
私は福井県武生市(現・越前市)で生まれ、地元の小学校、中学校、高校に通いました。高校での成績は悪くなく大学の進学先を考える時期になり、漠然と理科系に進もうと思っていました。高校在学中は仲の良い男女10名ぐらいで、受験勉強と社会勉強の両立に取り組んでいました。当時は、楽しい高校時代がずっと続くものと考え、皆で県内の大学に進学しようということになり、私と当時の交際相手(以下、元カレ)は福井医科大学(現:福井大学)医学部に入学しました。非常に安直な理由で進学先を決めたわけですが、両親は関西や関東の大学に行かずに地元の医学部進学を決めたことで、胸をなで下ろしていたようです。
大学進学後は、大学近くのアパートで暮らすことになり、旧交を温めたり、同期入学の友人達と親交を深めたりと、充実した時間を過ごしました。同じアパートには宮﨑香奈先生(現:三重大学血液・腫瘍内科学)もいて、今でも懇意にしています。
自ら積極的に選んだ医学の道とは言い難いのですが、講義や実習は楽しいものでした。やがて卒業後のことを考える時期になり、臨床実習で手術を見学したときに「何時間も手術を続ける体力はないな」と思い、内科へ進もうと決めました。ちなみに元カレとは在学中に交際を解消しており、彼は外科の道に進んでいました。
6年生になると、様々な医局が勧誘会を開きます。当時はいわゆるナンバー内科の時代で、まず順番通りに第一内科の勧誘会に参加しました。そこで私は医局長に「早割り制度はありますか?」と聞きました。その頃の医師国家試験は卒業後に実施され、4月下旬に合格発表があるため、卒業後1カ月以上は何もしなくていい時期のはずです。しかし、入局が決まったら卒業後は病棟で早期実習することを慣例とする医局がほとんどでした。
“早割り”とは、いち早く入局を決めたら、その早期実習を免除してもらうというもので、「今決めたら、早割りを認めよう」と医局長が言うので、その場で第一内科入局を決めました。「これでゴールデンウィークまで遊べる」と喜びました。就職先という人生の決断をこんなに簡単に決めてしまった自分にびっくりしますが、今は運命だったと思っています。
1999年5月から大学病院第一内科で、初期研修が始まりました。第一内科は循環器科、血液内科、消化器内科を主な領域としています。「循環器を専門として“カテガール”(カテーテルを得意とする女性医師)になるのもいいなあ」と考えた時期もありました。ところが循環器内科医は身長180cm台の男性ばかりで、私が心臓カテーテル検査を行なうときには診察台を下げ、先輩に途中で交代するときには診察台を上げ、また私に交代すると下げ、と時間ばかりがかかってしまい、「無駄な時間が多すぎる」とこの道は諦めました。
一方、血液内科の治療には医師の体格差は関係がなく、やりがいも感じました。抗がん剤で白血病を治せること、医師は治したい、患者さんは治りたいとベクトルが一致していて、一緒に治療していく一体感が私に合っていると直感し、血液内科に強く興味を持ちました。
〈後編では、味のある名脇役の疾患責任遺伝子を次々と同定したクリーブランドクリニック留学時代について語っていただきました。〉