リンパ腫の予後を規定する微小環境遺伝子を同定
腫瘍細胞との関わりを最新手法で解明へ(中編)
宮脇恒太(九州大学大学院 医学研究院 病態修復内科学(第一内科) 血液・腫瘍・心血管内科)
2021.07.01
米国留学
小川眞紀雄先生との出会い
医師臨床研修マッチングの日程では8月には参加登録を終えることになっていました。でも極めて“脱力系”の医学生だった私は、この日程を全く把握しておらず、マッチング登録最終日も、のんびりと沖縄の海に浮かんでいました。沖縄から戻ったあと、大学で友人と話してマッチング登録期間が終わったことを知りました。それで、ともかく国試だけは受けて医師免許は取ろうと思い、仲間に助けてもらいながらボーダーラインすれすれで何とか合格、安堵したのを覚えています。当然ながら、次年度から行く病院はありません(笑)。無学ながらも、若いうちに英語は身に付けたいと漠然と考えていた私は、ワーホリでオーストラリアに行こうと考えました。しかし、昔から家族ぐるみでお付き合いのあった杉山大介先生(現・広島大学トランスレーショナルリサーチセンター教授)のご助言のおかげで、最終的には、米国のサウスカロライナ医科大学の小川眞紀雄先生の研究室で、研究の手伝いをさせていただくことになりました。2006年春のことです。研究室では同年代のテクニシャンであるRomeoや研究者のMandyから仕事仲間として、友人として、研究や英語だけでなく、アメリカの文化・社会情勢など多くのことを学びました。日本人の研究者もいましたが、PhD取得後何年か待って留学される先生が多かったので、PhDはおろか研究も臨床も経験のない私の存在はかなり奇異だったと思います。それにもかかわらず、いつもおおらかな海老原康博先生(現・埼玉医科大学)、何事も丁寧に教えてくださる南口仁志先生、そして兄貴分のような世羅康彦先生に可愛がっていただき、多くの知己を得ることができました。
大学外では、地元のラグビーチームに加入し、週2回の夜練習と週末の試合で汗を流しました。チームメートとは、グラウンドで、バーで、ホームパーティーで、多くの時間を共にし、現在でも懇意にしています。ただ、このチームの名称が「Charleston Outlaws(無法者)」だったせいか、心配した小川先生には「ラグビーよりも剣道を」と勧められ、カリフォルニアのショップで防具一式を買い込みました。小川先生は当時剣道五段の腕前の持ち主で、The Citadelという軍事大学の武術の講師をされていました。私はなぜかアメリカで剣道を習い始めたというわけです。公開講座だったので、軍事大学の学生のみならず、一般愛好家や子どもたちなど幅広い年代、バックグラウンドの人々と友人になりました。週末の練習帰りには、Ashley Riverに臨むホテル(Holiday Inn)のバーで、湿地帯に沈む夕日を眺めつつ、ビールを飲んで小川先生と語るのがお約束となりました。チャールストンで最も好きな風景の一つで、今でも時々思い出します。さらに小川ラボではラボメンバーで週2回ランニングを行なうというルールがあったため、週に2日は剣道、3日はラグビー、2日はランニングという生活でとにかく健康生活でした(笑)。
そんな充実した毎日ではありましたが、留学を1年で切り上げることに決めた私は、夏に一時帰国し、都内6病院を受験しました。学生時代に情報収集活動を全くしていなかった私は、当時東京で研修中の同期(松村洋輔さん)に随分手伝ってもらいました。楽しい東京ライフを夢見て、港区・渋谷・新宿の病院を上位に希望したものの、実際にマッチしたのは希望順位6位の東京労災病院でした。羽田空港のすぐそば、大田区の町工場が密集している地域で、作業中に外傷を負った患者や救急患者が多く集まる病院でしたね。思い描いたイメージとはだいぶ違う東京生活でしたが、救急医療を経験したいと考えていた私には、労災病院とたすき掛けの東邦大学大森病院での研修は渡りに船でした。研修医の先輩・同期・後輩、そして研修担当の戸島先生や外科の片平先生、循環器科の池田先生など多くの先生方の薫陶を受け、医療の魅力、特に外科・救急医療にどんどんはまっていった時期でした。病院規模の割に研修医の数が少なく、研修医の1人持ち体制であったことも私にとっては良い環境だったように思います。良い意味で任されるので、「自分がやらなければ誰がやるの」という環境でした。そのお陰で、病状のみならず家族背景や社会環境を含めて、トータルでその患者さんにとってベストな道を模索する、という医師としての責任感が生まれました。今思えば、初期研修の2年間で、外科や救急科、循環器科、皮膚科、放射線科など、血液内科以外の科で一所懸命に学んだことが、その後の医師人生に大いに役立っています。御世話になった先生方の顔はいまだに脳裏に浮かびますが、本当に感謝しかありません。学生や研修医には、自分が将来専門科としなさそうな診療科での研修こそ重要な学びになる、ということを伝えるようにしています。医師という仕事に没頭していたためか、気付けば、ピアノやラグビーからは距離が空くようになっていました。
多くの患者さんとの出会いを通じ血液の道へ
チーム医療の重要性を感じる
とても充実した初期研修ではあったのですが、どの科に進むのかという進路については決めきれずにいました。救急医療の魅力を感じながらも、自分が救急医としてずっとやっていく姿を思い描くことができませんでした。救急医療現場では、患者さんがどういう状況で発見され搬送されるかなどの因子によって、その予後が決まることが多く、医師として無力感を感じることが度々あり、そのような経験も影響したような気がします。ありがたいことに、様々な先生方にお誘いいただいたこともあり、初期研修の修了間近の2009年の年明けまで、後期研修を外科・内科・救急・精神科で悩んでいました。
後期研修医を受け入れる東京の病院の枠も減ってくる焦りを感じながらも決めきれず。結局、何かをリセットしたくなって、また「友だちも多いし」という里心も手伝って、東京を離れ久しぶりに故郷に戻ることにしました。そして、実家近くの済生会前橋病院で後期内科研修医として採用していただきました。実はこの病院は父が長く勤め上げた所で、この決断によって、父の定年前の最後の1年を父子で同じ医療機関で働くことになりました。事前に相談をしていなかったので、さすがの父も驚いていました(笑)。またまたドタバタな感じで内科医としての日々が始まりました。それまで外科・救急で手技にばかり傾倒していた私には、様々な内科疾患に触れ、診断や治療に頭を悩ませる経験はとても新鮮で、患者さんにじっくり向き合う時間も大切にできました。済生会前橋病院での勤務が始まって間もなく、私は2人の白血病患者さんと出会い、血液内科医を志すことになります。医師という職業を疎んじてさえいたのに、父のいた病院で父が歩んできた道をたどるようなきっかけをもらったのは妙な縁だな、と感じます。
1人目の患者さんは急性前骨髄球性白血病(APL)でした。朝、ベッドサイドで私と話している最中に呂律が回らなくなり、10分もしないうちに意識がなくなり呼吸が止まりました。重症DICによる脳出血でした。緊急気管挿管を行ないましたが、口の中に入れた吸痰チューブが粘膜にぶつかっただけで口腔内に血が溢れ、挿管手技は困難を極めました。初期研修で様々な救急処置を経験したつもりでしたし、手技にも自信がありましたが、これほど激しい出血傾向は経験したことがなく、血液疾患の強烈さにショックを受けるとともに、患者さんに対する責任感でいっぱいになったのを記憶しています。その日から、つきっきりで治療を行ないましたが、残念ながら病勢コントロールがつかずにその方は亡くなりました。
2人目の患者さんはMDS/AMLの高齢のYさんでした。「男は黙って・・」を地で行くような人物で、お部屋に伺うといつもベッドの上で正座をして、「大丈夫です」しか言わないんです。ある日、いつも通り「大丈夫です」と言いながらも冷や汗をかいているのでSpO2を測ったら70%台で、実のところ起坐呼吸だった、なんて笑えないエピソードもありましたが…。ある日の外来中、そのYさんが待合室で他の患者さんと喧嘩を始めた、とのことで駆けつけました。事情を聞くと、どうも私が原因らしいと分かりました。外来診察室に入っていく私を見た他の患者さんから「あんな新米の若造じゃぁ頼りないな」と言われ、そこで喧嘩になったというのです。その頃は、先輩の初見菜穂子先生の口癖は「恒太くん、内科ではね・・笑」だった、というくらいのレベルでしたから、内科自体に慣れていなくて、自分の中で「見習い感」があったんだと思うんです。でも、Yさんにとっては「この医者が治してくれる」と全幅の信頼を寄せてくれていたからこそ、喧嘩になったわけですし、僕のそんな都合は関係ないわけです。患者さんにとっては、初期も後期も見習いもない、そんな当たり前のことを気付かされました。
血液診療には、救急診療のダイナミクス感がある一方で、ERと違って患者さんとじっくり向き合える時間を持つこともできるところに魅力を感じました。そんな患者さんとの経験を通じて、血液診療の魅力に引き込まれていき「白血病を治したい」という意識が明確に芽生えました。そこからは研修内容を血液疾患中心に組み替えてもらい、白血病治療センターで勤務するようになりました。 白血病治療センターでは、初見先生をはじめ佐倉徹先生、高田覚先生、星野匠臣先生に、完全素人の私の面倒を根気強くみていただき感謝しています。そこで特に感銘を受けたのは、皆の意識や診療システムが患者指向であったこと、そしてそういう空気感があったことです。医師だけでなく看護師や薬剤師、検査技師、病棟クラークさんまでもが、それぞれの立場で、患者さんのために何ができるかを考えている、そういう文化があったように思います。その背景には、中規模病院でお互いの顔が見えやすいという側面もあるのかもしれませんが、それを作り上げてきた皆さんに敬意を感じます。病院漬けだったこともあり、プライベートの付き合いも自然と病院関係者が多くなっていきました。検査技師の萩原さんや中島君とは公私ともに特に仲良くさせてもらいました。下宿アパート前で、釣り好きのYさんからもらったヒメマスやイワナを七輪で焼いて、よく飲んでいましたね。通常なら検体検査技師と患者が対面することは少ない気がしますが、いつの日からか彼らを積極的に患者さんと引き合わせるようになりました。そういう関係性のためか、彼らは積極的に検査を進め、時には自ら提案をし、気になる結果があれば迅速に知らせてくれました。そうした患者さんを中心としたチーム医療は、私にとって血液内科診療の原体験として貴重な経験となっています。そんな折、東京で開催された講演会の懇親会で、九州大学の血液内科の先生方にお会いする機会に恵まれ、ここでまた新たな展開が始まりました。
〈後編では、赤司教授や九大メンバーとの印象的な出会いや将来の夢について語っていただきました。〉