カナダ・トロントでリンパ腫のラボを開設
Clinician Scientistとして臨床にも携わる(前編)
青木智広(カナダ・プリンセスマーガレットがんセンター 腫瘍・血液内科 クリニシャン・サイエンティスト(スタッフ ヘマトロジスト)/トロント大学 アシスタントプロフェッサー)
2024.11.07
2024年10月に、カナダのトロント大学、プリンセスマーガレットがんセンターにラボを開設した青木智広氏。学生時代は循環器科を目指していたが、初期研修後は血液内科の道に進み、いまの治療で治せない患者を治すためには基礎研究が必要だと考えるようになった。大学院では腫瘍細胞と微小環境の細胞との関係の解明に取り組み、留学先のカナダで両者の新たなマーカーを見出した。研究をさらに進める一方、仕事の2割を臨床に振り分け、Clinician Scientistとしてリンパ腫の診療にも取り組んでいる。
「自分がやりたいと思っていたところにたどり着いた」。2024年10月に、カナダ・トロントに自分のラボを開設し、そう実感しています。トロント大学のAssistant Professor兼プリンセスマーガレットがんセンターのClinician Scientistという肩書きで、研究者としての仕事が8割、残り2割は臨床スタッフとしてリンパ腫診療に従事しています。研究を進めたい、そして医師として患者さんを治したいという2つの思いを実現できるポジションにつけたと思います。そして、これからが研究者としても医師としても本当のスタートと思っています。
医学生として学んだ千葉大学、卒後の初期研修を受けたNTT東日本関東病院、血液内科医として勤務した多くの病院、研究者としての第一歩を踏み出した名古屋大学、最初の留学先のカナダのブリティッシュコロンビアがん機関、そしてプリンセスマーガレットがんセンターと、ここに至るまでに多くの人との出会いに恵まれ、育てられました。改めて感謝しています。これからは、日本の若手研究者を少しでも多く迎え入れ、自分がこれまでにしてもらったことへの恩返しとして、彼らの北米でのキャリア形成をサポートし、やがて独立していってほしいと未来図を思い描いています。若い人に伝えたいことは、留学に限らず、一人ひとりにとってベストなキャリアは十人十色なはずで、こうしなければいけないというキャリアなんてないということです。ですから、もし何か本当にやりたいことがあるなら、多少リスクを背負ってでも、人と違う道でも、その瞬間瞬間を一生懸命生きて、道を自分で作り上げていく、そんな未来を歩いてほしいと思っています。それは、自分自身にもいつも言い聞かせていることですし、その結果、自分でも想像していなかった今を生きれるのは楽しいことです。こんな私が、そんな風に大志を抱いている若い人のキャリア形成のお手伝いができるなら、喜んでさせていただきたいと思っています。
子どもの頃から病院と医師は身近な存在
視野を広げるため新潟から千葉大学に進学
私は1983年に新潟市で生まれ、高校卒業まで地元の公立学校に通いました。小学1年生のときにウォルフ・パーキンソン・ホワイト(WPW)症候群と診断され、大学生になってカテーテルアブレーション治療を受けるまで、年に数回は発作が起き、病院を緊急受診することもしばしばでした。子どもの頃から病院は身近な存在で、父が医師だったので心強く思う一方、友だちから「お前も医者になるんだろ」と言われるのが嫌だったことを覚えています。
高校では野球に明け暮れる生活を送りました。高校の野球部の1年上には高橋康一先生(現:MDアンダーソンがんセンター)がいて、高校卒業後もキャリア形成の上で非常に刺激を受けています。ちなみに、トロントでも草野球チームに所属しており、多分今が一番野球を楽しんでいます。
さて、高校時代いよいよ進路を決める時期になって、文系か理系か迷いました。ちょうどその頃、木村拓哉主演の『HERO』というテレビドラマが放映されていて、検事や弁護士、裁判官に憧れたのです。ただ少し調べると、法曹の仕事は訴訟や裁判の仕事がほとんどで、自分が思ったことを自由にできるわけではないことも分かってきました。一方、理系に進むならば、病気に興味があり、父のように医学的な知識で家族を守りたいとも思い、医学部だと考えました。医師の仕事は患者さんに寄り添うことであり、自分の考えや行動が将来ぶれることはないとの思いもありました。
大学は地元ではなく千葉大学に入学しました。新潟以外の地域に行って視野を広げたいと考えたからです。日本中から人が集まる関東圏への憧れもあり、千葉大学を受験しました。新潟から見ると千葉は東京や横浜と同じくらい都会というイメージがあったのですが、実際に千葉大学に進むと、良くも悪くも想像していたような都会ではないなあとすぐ気づきました(笑)。
大学1〜2年の間にWPW症候群の治療を受けて不整脈の症状がなくなったこともあり、循環器科、特に不整脈への興味は強まり、5年生の臨床実習では循環器内科に力を入れて学びました。血液内科に関しては、義務の臨床実習ではなかったのですが6年生になって、内科系の診療科を一通り見ておきたいと考え、血液内科でも実習を受けました。当時千葉大学で血液内科の教員をされていた中世古知昭先生にはいろいろと親切に教えていただき、血液内科の雰囲気も良かったのですが、私の進路の選択肢には当時はなりませんでした。病理で顕微鏡を覗くのがあまり好きではなく、何より血液疾患は治らないというネガティブなイメージを抱いていたからです。
一方で、視野をさらに広げたい、世界のいろいろなことを知りたいという思いが強くなり、留学に興味を持つようになりました。北米から発表される優れた医学論文を理解するために、ジャーナルクラブに参加したりして、改めて英語を勉強するようになりました。千葉大には帰国子女が多く、彼らが流暢に英語を話す姿を見て、自分は全然英語ができないなあと落ち込むこともありました。
初期研修で循環器科から血液内科に転向
後期専攻で臨床医として論文執筆に取り組む
2007年に千葉大を卒業し、4月からNTT東日本関東病院で初期研修を受けることにしました。循環器科に進むことを念頭に、不整脈分野で高名な医師がいる病院を東京中心に調べた結果、同院に大西哲先生がいらっしゃることが分かったからです。初期研修1年目は内科を中心に1カ月毎に診療科をローテートしました。そして7月に私の進路を大きく変える出来事がありました。
同じ7月に東京大学から同院に異動された伊豆津宏二先生(現:国立がん研究センター中央病院)との出会いです。自分が血液内科のローテーションを始めるのと同じタイミングでの赴任であったため、部長の臼杵憲祐先生の計らいで伊豆津先生からはマンツーマンでのご指導を受けることができました。悪性リンパ腫の診療や研究の面白さ、難しさを学び、私が嫌いだった病理についても、がん研有明病院の竹内賢吾先生(現:がん研有明病院)らが主宰する病理を見る会に参加させていただき、分からないことが多かった分、血液内科への興味が膨らみました。NTT東日本関東病院の血液内科には多くの魅力的な先生が在籍されており、仲宗根秀樹先生(現:自治医科大学)もおられ、造血幹細胞移植についても学びました。仲宗根先生は血液領域だけでなく、広い見識と経験をお持ちで、救急外来でも活躍されており、血液内科医はなんでも診られる内科医とのイメージを持たせてくれました。こうして、この1カ月間で血液内科の幅の広さや、私が思っていたよりも血液疾患は治ることなどを知り、私の気持ちは血液内科にぐっと傾きました。循環器科では不整脈領域は主流でないことを知ったことも進路に影響しました。また、循環器系疾患は生活習慣など本人に責任があることも多いけれど、血液疾患は本人に責任がないのに突然重い病気になってしまうこと、だからこそ治したい…。これらのことを考え、血液内科に進むことを決めました。
実は父は、慢性リンパ性白血病(CLL)を主な研究領域とする血液内科医で、不思議なことに、結果的に私は父と同じような道に進むことになりました。私が医師になると決めたこと、血液内科に進むことについて、父から何かを言われた記憶はないですが、「循環器内科じゃないの?」とややびっくりしていたような記憶はあります。
なお、妻との出会いは伊豆津先生がきっかけになっています。NTT東日本関東病院の新任医師歓迎会では、新任医師が出し物を演ずる慣例がありました。伊豆津先生の歓迎会では、伊豆津先生、病棟看護師二人、私ともう一人の研修医の5人で、当時、はやっていた「ビリーズブートキャンプ」を演じました。そのときの看護師の一人が私の妻で、この歓迎会が二人の距離を縮めてくれました(笑)。歓迎会での伊豆津先生の“勇姿”を撮った写真がありますが、門外不出です。
後期専攻1年目は引き続きNTT東日本関東病院に勤務し、臼杵先生、仲宗根先生、伊豆津先生など錚々たる先輩がおられる中、様々な血液疾患の診療を経験しました。ただ、留学を視野に入れていた私は、リンパ腫に関する研究について幅広く学びたいと思っており、先輩方にいろいろと相談しました。そして、島田和之先生(現:名古屋大学)のようにリンパ腫の研究で活躍されている若い先生がおられ、歴史もある名古屋で研修することにしました。
〈後編では、留学先のカナダで臨床に携わることを諦めず、ポジションを獲得するまでの経緯をお話しいただきました。〉