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気鋭の群像Young Japanese Hematologist

造血幹細胞を柱に米国に研究拠点を構えて13年
他領域の研究者との交流も力に研究領域の拡充へ(前編)

伊藤圭介(アルバート・アインシュタイン医科大学 細胞生物学・医学(腫瘍・血液内科)・腫瘍学 教授)

慶應義塾大学医学部を卒業後、血液内科に入局し、内科研修医として勤務しながら大学院で白血病の研究に取り組んだ伊藤圭介氏。その後、造血幹細胞の研究に軸足を移し米国に留学、ニューヨーク、ボストン、再びニューヨークと研究の場を変えながら2012年に独立してラボを開設した。現在は造血幹細胞の代謝維持機構、造血器腫瘍関連、鎌状赤血球症を主な柱として多くの共同研究に取り組む一方で、同時に研究室メンバーの世代交代を進め、次世代を担う人材育成にも努めている。

伊藤圭介氏
アルバート・アインシュタイン医科大学の伊藤圭介氏

 現在私は、米国・ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学にて、細胞生物学・医学(腫瘍・血液内科)・腫瘍学の教授を務めています。研究室の主要テーマは3つです。1つ目は、造血幹細胞の代謝維持機構、特に脂質代謝やEV(Extracellular Vesicles, 細胞外小胞)に力を入れています。2つ目は、白血病関連の研究で、中でも急性前骨髄球性白血病(APL)の原因遺伝子であるPMLの機能解析と代謝との関連、さらに骨髄異形成症候群(MDS)におけるTET2の包括的解析です。3つ目は鎌状赤血球症(SCD)に関する研究で、血管閉塞への好中球の寄与を研究しています。

 2006年にニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリング・がんセンターにポスドクとして留学しました。その後、ボストンのベス・イスラエル・ディーコネス医療センターへ移り、ハーバード大学医学・病理学講師を務めたのち、2012年に再びニューヨークに戻り、アルバート・アインシュタイン医科大学のアシスタント・プロフェッサーとして研究室を立ち上げ、准教授を経て、2023年に教授となりました。

 この間、数多くの貴重な出会いに恵まれました。多くの方々から頂いたご指導や助言、そして温かな励ましに支えられ、チームとともに研究を着実に積み重ねてくることができました。これからも、研究の深化と人材の育成という2つの柱を大切に、未来を担う世代とともに歩んでいきたいと考えています。

2025年7月、ニューヨーク。Summer BBQパーティー。Ito研メンバーのほか、Meelad Dawlaty先生・Wenjun Guo先生とともに。前列左端が著者。
2025年7月、ニューヨーク。Summer BBQパーティー。Ito研メンバーのほか、Meelad Dawlaty先生・Wenjun Guo先生とともに。前列左端が著者。

ラグビーへの情熱が導いた慶應義塾中等部入学
医学部6年生の米国短期留学が海外キャリアの原点に

1998年夏、菅平。合宿中の練習試合を終え、医学部ラグビー部の同期とともに。右端が著者。
1998年夏、菅平。合宿中の練習試合を終え、医学部ラグビー部の同期とともに。右端が著者。

 私は子どもの頃からラグビーを観るのが好きで、中学生からプレーできる慶應義塾中等部に進学しました。高校ではホッケー部に所属し、それぞれの部で出会った仲間とは今も交流が続いています。理系分野が得意で、当初は数学者か物理学者を志していました。しかし高校時代に親戚を相次いで亡くした経験から、人の命に向き合う道を選び、医学部への進学を決意しました。大学では再びラグビー部に所属し、現在も日本国内外のプロリーグや大学ラグビーを追いながら、変わらずラグビーに親しんでいます。

 医学部のラグビー部には外科系を目指す仲間が多くいましたが、私は内科系、内分泌内科か循環器内科、腫瘍領域に関心を持っていました。その中で血液内科に進む大きな契機となったのが、1999年、6年生の夏に参加した米国での短期留学です。本来は3週間ほどのプログラムですが、大学の手厚いサポートのおかげで6月から9月までの約3カ月間、米国・ニューオーリンズのテュレーン大学に交換留学する機会を得ました。小児科と内科の診療現場で多くを学んだ、とても充実した3カ月間であり、この経験が、後に海外留学へと進む原動力にもなりました。

1999年7月、ニューオーリンズ。Tulane大学への短期留学中、病棟回診を終えEndocrinologyチームとともに。左端が著者。
1999年7月、ニューオーリンズ。Tulane大学への短期留学中、病棟回診を終えEndocrinologyチームとともに。左端が著者。

 一方で、内分泌内科では糖尿病の診療が柱となっており、私が診たいと考えていた腫瘍とは少し方向性が異なることが分かりました。この印象は慶應義塾大学病院での臨床実習でも同様で、自分のイメージとのギャップを強く実感する結果となりました。進路に迷いを感じた私は、当時指導を頂いていた木崎昌弘先生(現・よみうりランド慶友病院 副院長)に相談をしました。そして、「腫瘍内科を目指すなら血液腫瘍内科が適しているのではないか」というアドバイスを頂きました。木崎先生とは年齢が20歳離れていながら誕生日が同じであったこと、私の伯父が高校時代に木崎先生を教えていたという思いがけない縁もあり、進路に迷う私にとって大きな励みとなりました。先生のアドバイスを受け、2000年の卒業後は血液内科に入局し、同時に大学院へ進学しました。朝6時から夜9時までは内科主体の研修医として病院勤務、午後9時から午前2〜3時までは大学院生として研究に向き合うという生活が続きました。今振り返ると、現在では到底許されないような長時間勤務でしたが、当時の私は必死に前へ進もうとしていたことをよく覚えています。

細胞培養からマウスを用いた研究にシフト
造血幹細胞ニッチへとテーマも変わる

 2001年に医学部に総合医科学研究棟が竣工し、同年10月に総合医科学研究センター(リサーチパーク)が設立、池田康夫先生が初代センター長に着任され、大学院の研究環境が充実しました。大学院では木崎先生の研究室に入り、池田先生、木崎先生が指導教員となり道を示してくださいました。研究の実践は金城謙太郎先生(現・帝京大学医学部教授)と仲里朝周先生(現・横浜市立市民病院 副院長/血液内科長)に指導を受けました。木崎研では『Blood』『Cancer Research』などへの論文発表を目指しました。私の研究テーマは急性骨髄性白血病(AML)における生理活性物質によるアポトーシス誘導機構の解明で、細胞培養の手法を中心に取り組みました。研究成果は「Induction of Apoptosis in Leukemic Cells by Homovanillic Acid Derivative, Capsaicin, through Oxidative Stress: Implication of Phosphorylation of p53 at Ser15 Residue by Reactive Oxygen Species(ホモバニリン酸誘導体カプサイシンによる白血病細胞のアポトーシス誘導:活性酸素種によるp53のSer15リン酸化の関与)」として論文化し、2004年の『Cancer Research』に掲載されました。他の研究論文と併せ無事に学位を取得。酸化ストレス・p53経路・アポトーシスの分子機構を明確にし、後の造血幹細胞の代謝制御・ミトコンドリア研究につながる出発点を築くことができました。

2002年、木崎研究室のリサーチパークへ移転。木崎昌弘先生(中央奥)をはじめ、金城謙太郎先生(最後列右端)・仲里朝周先生(著者の前)を含む木崎研メンバーと。最後列右から2人目が著者。
2002年、木崎研究室のリサーチパークへ移転。木崎昌弘先生(中央奥)をはじめ、金城謙太郎先生(最後列右端)・仲里朝周先生(著者の前)を含む木崎研メンバーと。最後列右から2人目が著者。

 学位を取得後は、池田先生の推奨で2004年にリサーチパークに着任した須田年生先生の研究室(発生分化生物学講座)へポスドクとして移りました。血液内科の診療から一歩離れ、基礎研究を軸とする日々にシフトしました。当初から“physician scientist” を目指していた私には、その道筋が開け、研究生活の最初の転機となりました。

2002年6月、木崎昌弘先生(中央)・仲里朝周先生(左)と第7回 European Hematology Association(EHA、Florence)へ。学会のExcursionで訪れた塔の町サン・ジミニアーノでグロッサの塔を登り終えて。
2002年6月、木崎昌弘先生(中央)・仲里朝周先生(左)と第7回 European Hematology Association(EHA、Florence)へ。学会のExcursionで訪れた塔の町サン・ジミニアーノでグロッサの塔を登り終えて。

 研究では、トロント留学から戻ってきたばかりの平尾敦先生(現・金沢大学がん進展制御研究所)のご指導のもと、研鑽を積みました。研究室の大きなテーマは造血幹細胞及びそのニッチ(骨髄微小環境)の理解で、マウスへ骨髄細胞を移植し、自己複製能(骨髄再構築能)に寄与する因子の解明、ニッチの構成細胞や分子メカニズム、疾患や老化への関与などを追究しました。研究室の新井文用先生(現・九州大学医学部教授)のニッチに関する論文が『Cell』に掲載されるなど研究室は熱気に満ちていました。

 造血幹細胞研究を続ける中、海外の研究環境に身を置いてみたいという気持ちが次第に高まっていきました。須田先生に相談したところ、須田研は造血幹細胞ニッチ分野で世界をリードする研究室として知られており、「海外でしかできない研究は多くないかもしれない」という助言を頂きました。しかし、それでも気持ちは変わりませんでした。幸いなことに、須田先生はもちろん、木崎先生や平尾先生をはじめ、私を指導してくださった先生方の多くが海外留学の経験をお持ちでした。その背中を見ていたことも、私の決断を後押ししてくれたのだと思います。現在は他施設や施設内の多くの研究室と共同研究を進めていますが、留学で得た経験は私の大切な財産となっています。

2006年、東京・信濃町。血液内科で開いていただいた壮行会の集合写真。前列中央の池田康夫先生、右奥の木崎昌弘先生をはじめ血液内科の皆さんと。前列左から2人目が著者。
2006年、東京・信濃町。血液内科で開いていただいた壮行会の集合写真。前列中央の池田康夫先生、右奥の木崎昌弘先生をはじめ血液内科の皆さんと。前列左から2人目が著者。

ニューヨークに留学後、ラボとともにボストンへ拠点を移す
そして再びニューヨークへ。独立し、自らのラボを立ち上げる

 須田研での2年の研究生活ののち、2006年に最初の留学先である、ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリング・がんセンターにポスドクとして赴任しました。これも私の研究生活の転機の一つです。ラボを率いていたのはPier Paolo Pandolfi 先生で、陽気なイタリア人でした。ここで白血病幹細胞の研究に取り組むことになりましたが、わずか1年でPandolfi先生がヘッドハンティングされ、ボストンのベス・イスラエル・ディーコネス医療センターへ異動することになりました。私を含むラボのメンバーのほとんどが一緒に異動し、私は引き続きポスドクとしてPMLの解析と脂質代謝との関連などの研究を続けました。

 2008年からインストラクターとして研究室内のグループリーダーを2011年まで務め、肩書きはハーバード大学医学部医学・病理学講師となりました。

2007年2月、ニューヨーク。Pandolfi研のラボパーティーにて、メンバーと。Bench mateのIsabelさんが主催。後列中央が著者。
2007年2月、ニューヨーク。Pandolfi研のラボパーティーにて、メンバーと。Bench mateのIsabelさんが主催。後列中央が著者。
2007年、NY。翌月にボストンへ移る直前の6月、当時住んでいたアパートの裏庭でPandolfi研メンバーを招いて開催した酒パーティー。Pandolfi先生(右から2人目)、研究室メンバーと。右端が著者。
2007年、NY。翌月にボストンへ移る直前の6月、当時住んでいたアパートの裏庭でPandolfi研メンバーを招いて開催した酒パーティー。Pandolfi先生(右から2人目)、研究室メンバーと。右端が著者。

〈後編では、伊藤先生が米国で独立し、研究室を率いる立場となった後の研究成果や、“いざよい会”との出会い、現在のラボ運営・若手育成への思いについてお話しいただきました。〉