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この人に聞くThe Experts

34年の“外海回遊”を経て母校・北大の教授に
JCCG創設と小児成人移行期医療の体制づくりに尽力(前編)

真部淳(北海道大学 小児科 名誉教授)

「この人に聞く」第24回は、北海道大学小児科名誉教授の真部淳先生にお話をうかがいました。イタリアや米国での留学をはさみながら、聖路加国際病院、東京大学医科学研究所などで小児がんの診療・研究に従事。小児がんの臨床研究グループの全国統合に携わり、JCCGの創設メンバーとなり、後に第3代理事長を務めました。2019年には卒業から34年ぶりに母校の教授に就任し、小児がん診療の多職種連携や小児成人移行期医療を推進。2026年3月の退任までの歩みと、「医師には医学だけでなく、幅広い分野を学ぶリベラルアーツが重要」と語る、その思いを聞きました。

真部淳(北海道大学 小児科 名誉教授)

真部淳氏

1960年、茨城県日立市生まれ。1985年3月、北海道大学医学部卒業。同年4月から聖路加国際病院で卒後研修を受ける。1989年10月、イタリア政府奨学生としてローマ・カトリック大学小児腫瘍科で臨床研修。1990年9月から米国・セントジュード小児研究病院血液腫瘍科で、ポスドク・フェローとして基礎研究に取り組む。1993年4月、聖路加国際病院小児科医幹。1997年4月、東京大学医科学研究所小児細胞移植科助手。2004年4月、聖路加国際病院小児科医長。2019年4月、北海道大学小児科学教室教授。2026年3月に退任し、同年4月、北海道大学小児科名誉教授。日本小児がん研究グループ(JCCG)創設メンバー、第3代理事長。

 2026年3月、7年間務めた北海道大学小児科学教室の教授を退任しました。教授として北大に戻った2019年、久しぶりに目にした札幌の街は大きく変わっていました。鉄道の高架化によって札幌駅の南北は行き来しやすくなり、北口や北大正門周辺の開発も進んでいました。卒業後、北大の外で過ごした34年間を、私は“外海での回遊”と表現しています。

会津の開業医だった祖父が医師の原風景に
6歳で始めたピアノは生涯の友

 私は1960年、茨城県日立市に生まれました。父は中国・天津生まれです。父方の祖父は福島県会津の出身で、天津の日本人学校の校長募集に応じて中国へ渡りました。父は天津の日本人租界で14歳まで暮らし、終戦後、一家で会津へ引き揚げました。

 一方、母方の祖父は京都大学医学部を卒業した外科医で、戦後、会津に戻って医院を開きました。私は幼いころ、たびたび会津を訪れ、診察室に並ぶメスなどの医療器具や煮沸消毒器、消毒薬のにおいに興味を引かれていました。医院の手が足りないときには、母や叔母が手伝うこともあったようです。会津の自然とともに、祖父の医院は私の原風景になりました。

 祖父は学生時代に京都の禅寺で修行し、会津ではキリスト教徒の友人の教会で聖書を学び、NHKのラジオ英会話も聴くというハイカラな人でした。患者さんがいないときには短歌を詠み、地域の風土誌もまとめていました。

 父は日本鉱業(現・ENEOSホールディングス)のエンジニアとして、日立鉱山で働いていました。月曜から土曜まで仕事をし、日曜はゴルフという忙しい生活でした。そんな父と祖父を見比べながら、子ども心に「会社員は忙しい。医者の方が自分の好きなことをする時間がありそうだ」と思っていたようです。

 父はクラシック音楽が好きで、学生時代には音楽好きが集まる喫茶店でさまざまな曲を聴いていたそうです。私が6歳のとき、父の東北大学時代の友人を訪ね、開通して間もない新幹線「こだま号」で浜松の河合楽器へ行き、アップライトピアノを買ってもらいました。私は6歳、妹は4歳でピアノを習い始め、たちまち夢中になりました。

 小学6年生のころ、父がシューベルトの歌曲集『冬の旅』の「菩提樹」の楽譜を持ってきました。ぼろぼろになった楽譜を見ながら私がピアノを伴奏し、父がドイツ語で歌いました。「このために私にピアノを習わせたのではないか」と思うほど、父にとっては遠大な計画だったのかもしれません。

 中学生のころには作曲もして、音楽の道を考えたこともありました。しかし、妹は楽譜を十分に読めないころから、私が弾いた曲を耳で覚え、難しい曲も弾いてしまうほどで、のちに桐朋学園のピアノ科へ進みました。そんな妹を見て、私は音楽を職業にする道を諦めましたが、ピアノと音楽は生涯の友となりました。

2015年頃、友人の結婚式にて。ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章を演奏しました。これまで結婚式で5回以上弾いてきた、思い出深い一曲です。
2015年頃、友人の結婚式にて。ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章を演奏しました。これまで結婚式で5回以上弾いてきた、思い出深い一曲です。

敦賀で勉強に目覚め、苫小牧を経て札幌南高へ
祖父の勧めで北大に進学、教養課程で幅広く学ぶ

 父の転勤に伴い、中学進学時に福井県敦賀市へ移り、気比中学校に入学しました。敦賀は日立とは言葉も土地柄も異なり、最初は戸惑いました。北陸でありながら京都風の趣を持つ古い街で、外から来た私にはなかなかなじめない雰囲気もありましたが、先生方はとても熱心に教えてくださり、私はここで勉強に目覚めました。

 中学3年生の途中で、父の転勤で突然、北海道苫小牧市へ引っ越すことになりました。苫小牧の中学校は制服がなく、髪形も自由でした。大きな工場が多く、親の転勤で転入・転出する生徒も珍しくなかったため、私もすぐに受け入れてもらえました。雪はそれほど積もりませんが、冬の寒さは厳しく、3学期の体育はすべてスケートでした。

 敦賀にいたころから東京学芸大学附属高等学校を志望していましたが、当時、東京周辺以外からの受験は難関で、合格には至りませんでした。そこで札幌南高校に進学しました。自由で民主的な校風の学校で、ここで築いた人間関係は、その後の大きな財産になりました。

 大学進学を考えたとき、会津の祖父にも相談しました。すると、祖父はわざわざ札幌まで来て、「北海道大学がいいんじゃないか」と勧めてくれました。理由を尋ねると、「『都ぞ弥生』という寮歌がいい」と言うんです。私は「京大には『琵琶湖周航の歌』もあるし、京大に行きたい」と話しましたが、祖父は「京大には来なくていい。北大がいい」と重ねて言いました。祖父に背中を押される形で、1979年4月、北大医学部に進学しました。

 中学、高校へ進むときには知り合いが一人もいませんでしたが、札幌南高校から北大へ進む生徒は多く、医学部にも顔なじみがいました。そんな感じだったので、大学へ入るという緊張感はあまりなかったように思います。

 当時の北大では、最初の2年間が教養課程で、専門にとらわれず幅広い分野を学ぶことができました。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に登場する「アントニーの演説」を暗唱したこともあります。後に海外の研究者や留学生と話した際に、シェイクスピアや漢詩の知識が共通の話題となり会話が弾みました。こうした教養は、専門分野や国境を越えて人とつながるうえでも大切だと実感しています。また、サークル活動として、発足から50年を超える伝統を持つ北大交響楽団に所属し、クラリネットを担当しました。医学部のみならず、全学の仲間たちと実り多い学生生活を送ったことは、後の人生において大きな意味を持ちました。

血液内科と小児科の現場を見学し、小児科の道へ
聖路加で小児がん診療に出会う

 医学部6年生の夏休み、進む診療科を決めるため、実際の医療現場を見学しました。白血病に関心があり、まずは1週間、血液内科の病棟に泊まり込みました。診療はとても興味深かったのですが、当時は造血幹細胞移植が現在ほど普及しておらず、使用できる抗がん薬も限られていました。急性前骨髄球性白血病(APL)では、多くの患者さんを救えない厳しい状況でした。また、当時の私は、主に高齢の患者さんと向き合う内科医療は、あまり自分に向いていないようにも感じていました。

 小児科でも白血病などの血液疾患を診ると知り、翌週は未熟児医療で知られていた札幌の天使病院に1週間通いました。昼には体重1,000gほどの未熟児がNICUに搬送され、夜には喘息の子どもが緊急入院するなど、小児医療の多忙さを目の当たりにしました。

 それほど忙しいなかでも、毎週木曜の夕方になると、医師たちは抄読会に集まり、医学誌に掲載された最新の論文を読んで議論していました。思わず「小児科ってアカデミックなんですね」と言うと、「何を考えていたんだ。小児科はアカデミックなんだよ」と返されました。子どもの成長や発達を踏まえながら、幅広い臓器や疾患を診る小児科は、今思えば、最もアカデミックな臨床科の一つかもしれません。こうした経験から、小児科へ進むことを決めました。

 当時は、現在のような卒後臨床研修制度が整う前で、東京では聖路加国際病院、三井記念病院、虎の門病院などが研修先としてよく知られていました。札幌南高校から北大までの9年間で人間関係もかなり濃くなっていたので、一度、東京へ出ようと考えました。

2009年6月、日野原重明先生のご自宅にて。音楽を愛した日野原先生とは、ともにピアノを楽しむこともありました。お会いするたびに「君は、まだピアノを弾いてますか?」と声をかけてくださいました。
2009年6月、日野原重明先生のご自宅にて。音楽を愛した日野原先生とは、ともにピアノを楽しむこともありました。お会いするたびに「君は、まだピアノを弾いてますか?」と声をかけてくださいました。

 友人に誘われて聖路加国際病院のレジデント採用試験を受け、小児科で採用されることになりました。しかし、私は聖路加について十分に調べないまま受験していたため、合格後、小児科部長の西村昂三先生に「そちらの病院で小児科を学んで大丈夫でしょうか」という手紙を書きました。ずいぶん失礼な手紙ですが、西村先生は、後に私のメンターとなる細谷亮太先生に「北大生からこんな手紙が来たけれど、どうする」と相談したそうです。細谷先生は「私も入るときは不安でしたから、仕方がないんじゃないですか」と答えたそうで、過去の研修医の進路を紹介する資料を送ってくれました。そこには海外留学を経験した先輩が多く、「それなら大丈夫だろう」と思いました。

 1985年4月に研修を始めてから、聖路加の小児科が小児がん診療で知られていることを知りました。西村先生のもとには多くの小児がん患者が集まり、小児白血病の多施設共同研究でも聖路加が重要な役割を担っていました。私もそこで多くの患者さんを診るうちに、小児血液・腫瘍を専門にしようと考えるようになりました。後に全国規模の研究グループづくりに携わることになりますが、その原点も聖路加にありました。

 当時、レジデントは院内の寮で生活し、2年間、事実上の住み込みでした。土日に休みが取れるのは月に1回ほどで、歩いて行ける銀座にもめったに出かけられませんでした。

ローマからセントジュードへ、臨床と基礎研究を学ぶ
東大医科研では臍帯血移植と小児MDS研究に取り組む

 聖路加では、まず2年間、小児科全般の研修を受け、その後、小児血液・腫瘍を専門とする後期研修に進みました。当初は研修を終えたら北大へ戻るつもりでしたが、聖路加の人手が足りず、戻るタイミングを逸してしまいました。

 研修中、小児がん学会で、ローマ・カトリック大学のマストランジェロ教授の講演を聴きました。それをきっかけに、「1年ほど、この先生のもとで学んでみたい」と考えるようになりました。当時、イタリア政府の奨学金制度があり、応募者の多くは音楽や美術を学ぶ人でした。医学分野からの応募が珍しかったためか、幸い試験に合格し、医師5年目の1989年10月、妻とともにローマへ渡りました。

 ローマ・カトリック大学では、小児がんの臨床を学びました。マストランジェロ教授も音楽が好きで、自宅には河合楽器のピアノがありました。私も自宅にピアノを借り、オペラ座にも通うなど、音楽を楽しみながら過ごしました。

 留学から半年ほどたったころ、西村先生ご夫妻がローマを訪れました。自宅でマストランジェロ教授とのピアノの連弾を披露すると、西村先生から「こんなに楽しいのは留学とは呼ばないよ」と言われました。私が本当に勉強しているのか、様子を見に来たのかもしれません。

2010年、愛車のアルファロメオ159スポーツワゴンと。ローマ留学中、颯爽と走るアルファロメオに憧れ、帰国から15年後に念願の一台を手に入れました。
2010年、愛車のアルファロメオ159スポーツワゴンと。ローマ留学中、颯爽と走るアルファロメオに憧れ、帰国から15年後に念願の一台を手に入れました。

 その西村先生の紹介により、1990年9月から米国のセントジュード小児研究病院血液腫瘍科で、ポスドク・フェローとして白血病の基礎研究に取り組むことになりました。西村先生自身も米国で小児がんを学んだ経験があり、セントジュードとのつながりを持っていました。ローマとは大きく異なる環境で、約2年半、研究に打ち込みました。このときの研究経験がなければ、現在の自分はなかったと思います。

 1993年4月に帰国し、再び聖路加で診療に携わりました。そのころ、東京大学医科学研究所の教授に就任した中畑龍俊先生から、「医科研に小児科をつくろうと思うので、来ませんか」と声をかけていただき、1997年4月、医科研の小児細胞移植科へ移りました。

 当時は臍帯血移植が始まったばかりで、医科研でも臍帯血バンクの設置が進められていました。さらに、小児領域で遺伝子治療などの先端医療に取り組む構想もありました。私は患者さんを診療しながら研究を行い、臍帯血移植をはじめとするさまざまな移植医療に携わりました。

 同じ1997年、ドイツで第1回国際小児MDS研究会が開かれ、私も参加しました。骨髄異形成症候群(MDS)は主に高齢者にみられる疾患と考えられていましたが、小児にも発症することが明らかになりつつありました。小児MDSの一部には、生まれつきの遺伝的素因が関係すると考えられ、その後、遺伝性造血器腫瘍に関連する遺伝子が次々と明らかになっていきました。医科研では、全国から集められた小児MDS疑い症例の中央診断などに取り組みました。

 医科研では研究と診療を両立する貴重な経験を7年間積みましたが、2004年に小児科部門が縮小されました。構想されていた小児の遺伝子治療を実現できなかったことは、今も心残りです。

2018年、ヘルシンキで開催された「第29回International BFM Study Group年次総会」にて座長を務めました。
2018年、ヘルシンキで開催された「第29回International BFM Study Group年次総会」にて座長を務めました。
2019年、ミラノのスカラ座にて。小児白血病の国際研究グループI-BFMの会議で現地を訪れた際、会議の後にスカラ座へ足を運ぶのをとても楽しみにしていました。
2019年、ミラノのスカラ座にて。小児白血病の国際研究グループI-BFMの会議で現地を訪れた際、会議の後にスカラ座へ足を運ぶのをとても楽しみにしていました。

〈後編では、全国の小児がん研究グループを統合したJCCGの創設、母校・北大で進めた多職種連携と小児成人移行期医療、さらに若い医師・研究者への思いを語っていただきました。〉